北大路魯山人が1959年に没して現在では61年、美味しいものを食べるために料理だけでなく器も作る明治の文人らしさを読みたくなった。
とりあえず、内容を要約していますが、読んだ僕のフィルターを通していることをご了承ください。
【 タイトル 】 明石鯛に優る朝鮮の鯛
魯山人が語る過去に食べた鯛が美味しかった地域のはなし。
世間では明石の鯛がうまいうまいというが、朝鮮半島に青磁の窯跡を探していたときに、偶然に出されて食べた鯛の刺身がとても美味しかった。
昭和3年に朝鮮に行った時には、鳥も魚も美味しいものを食べることができなかったので、そういった地域なのかと思っていたら順天や釜山の方面で、だされた鯛が地元の人たちで消費されるにはあまりにもったいない味だった。
日本でも明石鯛だけではなく5,6月の加賀の海で捕れる鯛は玄海灘を越えて朝鮮南端で産卵をするから、その時期にあわせて捕れる鯛は栄養があって旨い。それ以外の時期は餌が乏しいから不味い。
【読んで思うこと】
昭和7年という激動の時勢にある意味でのんきな話をしているのではあるが、電気の冷蔵庫もなければ簡単に運べる輸送手段もない時代に美味しいものを食べたければ自ら足を伸ばさなけれ食べることはできない。
そんな中でも日本国内である明石の鯛は列車も整備されていることもあり食べることができたかも知れない。しかし、海外になるとそう滅多と行けるものではない。
それでも魯山人は私が食べた中でもっとも美味しかった鯛は朝鮮半島で食べれると口にする。
今なら5万円もあれば生き返りが出来るご時世であり、食べに行こうと思えばいけないわけではない。
当時の人はどんな気分で読んでいたのだろうか。
「さすが魯山人、俺も食べたいね」だったのか「けっ、魯山人めめ。うらやましい!」
どちらだったのかが気になるところ。