北大路魯山人が1959年に没して現在では61年、美味しいものを食べるために料理だけでなく器も作る明治の文人らしさを読みたくなった。
とりあえず、内容を要約していますが、読んだ僕のフィルターを通していることをご了承ください。
『味を知るもの鮮し』の要約
毎日、朝昼晩と美味しいものを食べたい。美味しいものを食べれば人間誰しもが機嫌がよくなるものだ。そんな食生活が健康を作る源になっている。
世間では、カロリーだとかビタミンというものが必要だといってはいるが、それだけを考えるなら心への喜びがない。自分が美味しいと思う食べ物を食べて三食とも美味しい食事を楽しめたら素晴らしいことである。
それなのに貧者はしかたがないが、富者までものが食を自由にせずににたようなものばかり食べている。日本には美味しいと感じることが出来る食材が一千以上あるのに50か100そこらの食べ物だけを食べている。無関心に同じものばかりを食べているから偏食が続き食事の制限をしなければならないようなことになる。
今、世間では本物の日本料理を家庭で出来る人はほぼいない。ラジオの料理もレベルが低いものばかりであり、色沢、香気、味覚にたいしての経験の低いものたちが料理関係者に増えているためもっと厳しく改めてほしい。
美味しい食事を作るにはよい調度品、よい食器を使うと味がよくなる。品位好尚なが高雅であれば自ずと品位が備わって口に美味しく、心にたのしいく、栄養の面でも達せられるものだ。
食材の鮮度に注意をはらえば、化学調味料などをもちいずとも日本の山や海の食材の持ち味を活かせば美味しい料理が作れる。間違っても無用に砂糖を使わないことだ。
【 読んで思ったこと 】
昭和33年と科学的な研究が進み、人体にはどのような栄養が必要なのかがわかるようになった時代、食にこだわる魯山人としてはビタミンやカロリーといったものにとらわれなくても美味しい食材を万勉悪食べれば体と心の栄養は自然と賄うことが出来るという意見のようで、本当に食への拘りがうかがえる。
日本が高度成長期の時代になり、食の文化も日本食よりも洋食をもてはやすようになった時代であり、世の中荷は化学調味料が溢れ、魯山人が子供の頃には考えられないほどの簡単にてに入る砂糖、食事にゆっくりと時間を使うぐらいだったら他のことに時間を使いたいと言う人たちが増えている時代に食にこだわる人としてどのように見ていたのかがうかがい知れる。
今で言う成人病が出てきて、食事に制限がかかる人たちもちらほらと現れていたのかもしれない。それを見た魯山人としては今までにない病気になる人たちの原因は食事にあり、化学調味料や砂糖の乱用からなっていて、そんなものに頼らなくても日本の山と海には十分に美味しいものがあることを語っているのがらしさを感じさせる。
どうすれば美味しく食べられるかの話として器にこだわることも食が色彩、香気、触覚であることをよく理解しているからの意見であり、少しでも美味しく食事をすることへの意識が見える。