宮沢賢治といえば、何を思い浮かべるでしょうか。
「雨ニモマケズ」のストイックな詩人? それとも『銀河鉄道の夜』の幻想的な童話作家?
今でこそ教科書の常連である彼ですが、少し昔の教科書、あるいは特定の世代にとっては、彼はそこまで「学校で出会う作家」ではありませんでした。
今回は、漫画『宮沢賢治の食卓』の感想記事では書ききれなかった、「教科書が教えてくれなかった宮沢賢治の素顔」について、少し掘り下げてみたいと思います。
教科書には載っていなかった賢治
私が小学生だった頃、国語の教科書に載っていたのは、芥川龍之介の『藪の中』や『鼻』、あるいは太宰治の『走れメロス』といった、明治・昭和の文豪たちの作品ばかりでした。
当時、宮沢賢治の童話が大きく取り上げられることは少なかったように記憶しています。
私が『銀河鉄道の夜』という名作に出会ったのも、学校の授業ではありません。
偶然訪れたプラネタリウムで、星空の解説とともに語られた物語に衝撃を受けたのがきっかけでした。
「こんなに美しい物語を書く人がいたのか」と。
生前の賢治は、無名の作家でした。
37歳で亡くなるまでに出版された本は、自費出版の『心象スケッチ 春と修羅』と『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』のたった2冊。
ゴッホと同じく、その才能が世に広く認められたのは、彼がこの世を去ってからのことなのです。
「雨ニモマケズ」と「天ぷらそば」のギャップ
賢治には「雨ニモマケズ」の詩から連想される、質素で禁欲的な「農民の聖人」というイメージがついて回ります。
「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というあの一節です。
しかし、実際の賢治は、当時の先端を行く「モダン・ボーイ」でもありました。
ハイカラな食生活と経済格差
彼の実家は裕福な質屋・古着屋であり、彼自身も盛岡高等農林学校を首席で入学したエリート。
農学校の教員時代の給料は90円前後と、当時の平均(約70円)を大きく上回る高給取りでした。
明治維新から数十年、日本が急速に近代化していく中で、都市部では「ハヤシライス」や「ビフテキ」といった洋食が楽しまれるようになっていました。
一方で、農地を持たない農民たちは「大根めし」で飢えを凌ぐのがやっとという、激しい貧富の差があった時代です。
そんな中、賢治は給料が入ればレコードを買い、行きつけの蕎麦屋で「天ぷらそばとサイダー」を注文し、困っている人がいれば惜しげもなく奢っていました。
彼は決して「清貧」を貫いたわけではなく、裕福な家の支援と高い給料があったからこそ、ハイカラな文化を享受し、同時に理想を追うことができたのです。
かつてラジオCMで耳にした「宮沢賢治が好きだったのは天ぷらそばとサイダーだった」というフレーズ。
これが私の中で強烈に残っているのは、それが「聖人」のイメージを心地よく裏切る、人間味あふれるエピソードだったからでしょう。
「逃げなかった」男・宮沢賢治
もう一つ、賢治の実直さを表すエピソードがあります。
それは「徴兵検査」の話です。
当時、学生や研究者は徴兵検査を延期できる制度がありました。
父親は彼に研究生となって検査を先延ばしにするよう勧めましたが、賢治はそれを嫌い、堂々と検査を受けています。
結果は第二乙種(兵役免除)。
後に37歳で命を奪うことになる「胸膜炎(結核性の病気)」の兆候が、すでにあったためとも言われています。
自分の信念を曲げず、特権に逃げ込もうとしなかった真っ直ぐな性格。
そして、常に死の影(病魔)と隣り合わせだった肉体。
その「強さ」と「儚さ」の両方があったからこそ、『銀河鉄道の夜』のような、死生観を問う美しい物語が生まれたのかもしれません。
おわりに
教科書の中の「偉人」としてではなく、天ぷらそばを愛し、給料を散財し、病と闘いながら理想を追い求めた「一人の青年」として宮沢賢治を見る。
そうすることで、彼の作品はまた違った輝きを放ち始めます。
そんな「人間・宮沢賢治」の姿を、食事を通して生き生きと描いた漫画が『宮沢賢治の食卓』です。
興味を持たれた方は、ぜひ感想記事の方もご覧ください。
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