北大路魯山人が1959年に没して現在では61年、美味しいものを食べるために料理だけでなく器も作る明治の文人らしさを読みたくなった。
とりあえず、内容を要約していますが、読んだ僕のフィルターを通していることをご了承ください。
『甘鯛の姿焼き』の要約
甘鯛の姿焼きは昔から東京にある料理で、金串を扇形になるように打たないといけない。何も考えずに数を打てばいいものではないが刺すときは重心に注意すれば数は其れほど問題ではない。
東京の甘鯛は静岡県の興津だいが多いといわれ、静岡の近海で取れるものが良いといわれる。関西では若狭の海から来ているぐじ(甘鯛)といわれるものがよい。
姿はどちらも同じだが、若狭のぐじは鱗ごと焼いても食べられるが、興津だいは鱗を剥がしてたべねばならない。住んでる場所もどちらも食べてるもの違うの知っておいても無駄ではなかろう。
甘鯛にも種類があり、白皮と称される皮が薄桃色とか白いものであって東京では普通の鯛の2,3倍の値がしている。遠方で時間が立つとその旨味をまっとうしないので地産で食うと美味である。
【 読んで思ったこと 】
甘鯛に限らないが鯛の姿焼きをプロが作る場合は串打ちといって鉄の串を腹のところから扇形に刺して炭火で強めの火にしてじっくりと焼き上げることでふっくらとした仕上がりで作ることが出来る。
ご家庭ではレンシレンジで作ることが出来るが、鯛の姿焼きは目出度いことがあった日でもないとそうそう食べることがない。まして今の御時世、お店でしか食べたことがない人も多いいと思う。
もしかしたら言葉だけで姿焼きの料理は実物を見たことがない人は難しい料理工程が想像するのは難しいだろう。甘鯛の姿焼きが料理として出てくるときには皿に乗っているので鯛に串が刺さっているところなどは見たことがないはず。
読んでるとやっぱり魯山人は料理をする人なんだなと感じざるおえない。
書かれたのが昭和9年、魯山人の周りでは当たり前のように食べられていたんだろうが、一般の家庭で甘鯛が当たり前のように食べられていたかと考えるとそれはないと思うので、読んでた人たちは「姿焼きはそんなふうに料理をするんだ」とか「甘鯛は地域によって姿焼きのやり方がちがうのか」といった感想だったのかなと想像してしまう。
大恐慌のあとの1933年はまだまだGDPが下り坂の時代なのでこれをよんだ庶民の気持ちはいかがなものだったのかと。
ところで、美味しんぼでも甘鯛の姿焼きの話があり、話の中では関西の甘鯛を姿焼きにした若い料理人が鱗を取ってしまい。京都の人に若狭焼きを知らないのかと怒られています。
関東に住んでたら知らんがなという話なんですが、京都でプロなんで仕方がないのかもしれんが、美味しんぼの料理を食べる人はなんであんなに短気なんでしょう?