真っ黒い画板を力いっぱいガリガリと削り、どうにか黒を削り落として「白」を作り出したかのような絵。

田辺剛先生が描くラヴクラフト傑作集『神殿』は、黒の中から無理やり光をあぶり出したような、圧倒的な「黒の圧力」を感じさせる作品です。

たとえ白い部分が多いページであっても、そこには常に薄気味悪さが纏わりついています。

田辺剛『魔犬 ラヴクラフト傑作集』神殿
田辺剛『魔犬 ラヴクラフト傑作集』神殿

今回は、ラヴクラフト傑作集『魔犬』に収録されている短編『神殿』について。
潜水艦という密室で描かれる、狂気と理性の対立について考察します。

『神殿』作品情報

  • 漫画:田辺剛
  • 原作:H.P.ラヴクラフト
  • 収録巻:『魔犬 ラヴクラフト傑作集』
  • 初出:コミックビーム(2009年)

あらすじ:深海へ沈みゆくUボート

舞台は1917年、第一次世界大戦の真っ只中。
ドイツの潜水艦(Uボート)が、ある「象牙細工」を拾ったことから悲劇は始まります。

敵船の船員の遺体が持っていたその細工を手に入れて以来、艦内では不可解な現象が続発。

死体を率いる幻覚を見る者、精神が衰弱していく者。
ついにはエンジンが故障し、浮上できなくなった潜水艦の中で、恐怖に駆られた船員たちが暴動を起こします。

艦長は彼らを「処分(射殺)」し、副艦長と二人きりで深海へと沈んでいく。
その先で彼らは、あるはずのない「高度な古代人の遺跡」を目撃するのです。

考察:艦長と船員の「狂気」の違い

この物語の面白さは、極限状態における「理性と非理性」の対比にあります。

船員と副艦長の「人間的な弱さ」

閉鎖された潜水艦、幻覚、そして死への恐怖。
船員たちがパニックを起こすのは、人間として極めて正常な反応です。

最後まで生き残った副艦長でさえ、最後には象牙細工を「神」のように崇め、祈りを捧げ始めます。

本来信じている神ではなく、ポケットの中の不気味な細工にすがる。
これは彼が理性的な判断力を失い、狂気に飲み込まれたことを示しています。

艦長の「異常な理性」

一方で、艦長だけは最後まで冷徹です。
暴動を起こした部下を即座に射殺し、海底の遺跡を見ても「自分が狂っているのだ」と冷静に自己分析を行う。

なぜ彼だけが、象牙細工の呪い(あるいは深海の狂気)に耐えられたのでしょうか?
彼が人一倍、理性的だったからでしょうか?

私は「違う」と思います。

結論:艦長は最初から狂っていた

作中の彼の発言を振り返ってみましょう。

  • 「ゲルマン民族の誇りを思い出せ」
  • 「我々帝国軍人は降伏などせぬ」
  • 「忘れられた都市を最初に歩む者は、ドイツ人である私でなければならない」

死が迫る絶望的な状況下でも、彼は常に「ドイツ帝国のため」を最優先にしています。
これは正常な愛国心を超えた、ある種の「狂信(ファナティシズム)」です。

つまり、艦長は「ドイツへの心酔」という強固な狂気を最初から持っていた。
その強すぎる自意識が防壁となり、象牙細工がもたらす「クトゥルフ的な狂気」が入り込む隙間がなかったのではないでしょうか。

クトゥルフ神話において、正気を保てる人間は稀です。
しかし彼のように、「別の狂気で理性を塗り固めている人間」だけが、神話的恐怖と対峙しても折れないのかもしれません。

それが幸福なことかどうかは、また別の話ですが。

田辺剛『魔犬 ラヴクラフト傑作集』表紙
田辺剛『魔犬 ラヴクラフト傑作集』表紙