「狂気」を絵で表現することは可能なのでしょうか?
H.P.ラヴクラフトが創り出した「クトゥルフ神話」。
名状しがたい恐怖、宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)を、圧倒的な画力で漫画化し続けている作家がいます。
田辺剛(たなべ ごう)さんです。
今回紹介するのは、その傑作集の一つ『魔犬』。
収録された3つの物語を通して、言葉にできない「何か」が滲み出てくる恐怖体験をご紹介します。

魔犬 ラヴクラフト傑作集
- 漫画:田辺剛
- 原作:H.P.ラヴクラフト
- 出版社:KADOKAWA(ビームコミックス)
- 収録作品:『神殿』『魔犬』『名もなき都』
収録作品と感想
本書には、ラヴクラフトの初期〜中期の傑作短編が3本収録されています。
それぞれ異なるベクトルから「狂気」へアプローチした作品です。
1. 神殿(The Temple)
【あらすじ】
第一次世界大戦中、ドイツのUボート(潜水艦)が舞台。
敵船を撃沈した後、艦に引っかかった英国人の遺体から「象牙細工」を手に入れたことで、艦内の日常が崩壊していきます。
幻覚を見る船員、故障するエンジン、そして深海へと沈んでいく潜水艦。
逃げ場のない鉄の棺桶で、彼らが海底で見たものとは……。
【感想】
この話の怖さは、「原因が特定できない」ところにあります。
閉鎖空間からくる集団ヒステリーなのか? それとも象牙細工の呪いなのか?
一切の説明がないまま、ただ静かに狂気が伝染していく様が恐ろしい。
深海の底にあるはずのない「神殿」を見つけた時の絶望感と美しさが、田辺先生の緻密な線で描かれています。
2. 魔犬(The Hound)
【あらすじ】
退屈を紛らわせるために墓荒らしを繰り返す、二人の若者。
彼らはオランダの墓地で、500年前の遺体から「翡翠の魔除け(獣の像)」を盗み出します。
しかし帰国後、屋敷の周りで異変が起き始めます。聞こえてくる羽ばたき音、巨大な獣の爪痕。
「開けてはいけない扉」を開いてしまった若者たちの末路を描く怪奇譚。
【感想】
世の中を斜めに見ている若者たちが、本物の怪異に遭遇して手も足も出なくなる。
典型的な因果応報の物語ですが、田辺先生の描く「魔犬」の気配が凄まじい。
物語は「これからが本番」というところで幕を閉じますが、その余白が逆に読者の妄想を掻き立てます。
3. 名もなき都(The Nameless City)
【あらすじ】
アラビアの砂漠の奥地、誰も近づかない廃都。
主人公は、人が立つこともできないほど天井の低い遺跡の奥へと進んでいきます。
松明も消える暗闇の先で見つけたのは、無数の棺と、天井に描かれた「歴史」でした。
【感想】
圧巻なのは、遺跡内部に描かれた「天井画」の描写です。
そこには、先住種族が人類に対して抱く憎悪と、彼らの宗教観が描かれています。
私たちがよく知る歴史画の構図、その「加害者」と「被害者」を入れ替えたような絵。
言葉ではなく、絵画だけで「人類とは相容れない種族の怨念」を表現する手腕に鳥肌が立ちました。
まとめ:細部に宿る「怖気立つ何か」
どの作品も、派手な驚かせ要素があるわけではありません。
しかし、人物の表情以上に、背景の細かな書き込みや小道具から、じっとりと湿った恐怖が伝わってきます。
「何が怖いか」を言葉にするのは難しい。
けれど、ページをめくるたびに確実に「怖気立つ何か」がそこにある。
クトゥルフ神話を知らない人でも、この圧倒的な画力と雰囲気だけで十分に楽しめる一冊です。


